真宗大谷派堺別院(通称・堺南御坊)は、西本願寺所属の本願寺別院(北の御坊)と共に親しまれてきました、由緒ある別院です。 現在は難波別院の支院であり、堺支院とも呼ばれます。
堺別院時代
昭和20年戦火消失までの境内の様子(写真①
真宗大谷派堺別院(堺南御坊)の創立は1603(慶長8)年、本願寺12代・教如上人(1558~1614=写真①)が建立されたと伝えられています。当時の「和泉」・「南河内」・「中河内」・「住吉」といわれる地域を中心に、教化拠点として活発にその役割を果たしてきました。
往時を伝える資料は残念ながら多くはありません。明治初年頃の『大阪府全志』によりますと、「境内1427坪を有し、四方に粉壁を繞(めぐ)らし、本堂はその中央に聳(そび)えて、嶄然(ざんぜん:一段と高くそびえるさま)群居の上に出で、碧瓦日光に映じて壮厳を極め、数千の建物彼此に連(つらな)り…」と、往時の全容を伝えています。
香部屋より出火
創建以来一度も火災に遭わなかった堺別院ですが、1887(明治20)年5月、香部屋より出火、本堂を焼失しました。幸いその他の諸殿は難を逃れたので、直ちに再建にとりかかりましたが、諸事情によりなかなか進展せず、ようやく1895(明治28)年12月より再建が具体化することになりました。再建後の本堂は当時の記録で15間四面の本堂と伝えられ、堺市随一の建物と讃えられました。
再び火災に
完成した立派な本堂において、1912(明治45)年5月に宗祖親鸞聖人650回御遠忌が御親修(彰如上人)のもと、おごそかに執り行われましたが、1916(大正5)年11月25日、再び火災に見舞われ、本堂・大広間・輪番所・香部屋・玄関を焼失しました。しかしこの火災においても寺院・ご門徒は困難に一丸となって立ち向かわれ、1919(大正8)年10月には本堂を除く諸殿の復旧を果たしました。2度の火災にも焼け残ったとされる当時の表門は、優雅な彫刻を施した桧皮葺唐門で、かなり立派なものだったそうです。
戦災
空襲後の仮本堂は、府立黒山農業学校の古校舎を少し改造したもので、備品も少なく、内陣もごく簡素なものであったと言われています。(写真②
2度の再建のご尽力もつかの間、1945(昭和20)年7月9日夜、堺市を襲った大空襲は市内を焼野と化し、さしもの偉容った堺南御坊も全ての堂宇が灰燼に帰しました。大谷派寺院も11ヶ寺が焼失し=写真②し、ご門徒の被害も甚大なものがありました。ただ、幸いにも御本尊および宗祖親鸞聖人の御影は難を逃れました。
戦災後~お待ち受けを機に
戦後堺市はいちはやく都市計画復興土地区画整理事業を行い、堺南御坊の境内地は西半分を現在の殿馬場中学校に接収されました。南側も道路拡張により削り取られ、1427坪の境内地は810坪まで縮小されました。
そんな中、小学校の校舎を譲り受けた仮本堂で教化活動を続けておりましたが、元々が老朽化した校舎であったため、修繕費用がかさむばかりでした。
そんな中、1957(昭和32)年9月29日、本山の宗祖聖人700回御遠忌に先だって、お待ち受け法要が御親修(闡如上人)のもと執り行われました。終戦後の混乱に心を痛めていた寺院・門徒もこれを機に気持ちが一つにまとまり、おのずと堺南御坊再建復興の話が立ち上がりました。
復興への足どり
さて、復興への歩みをはじめたまでは良かったのですが、当時は国全体が戦争からの復興にあえいでいる時代です。地元寺や門徒にも甚大な被害があった中、なかなか復興への具体的な案がまとまりません。そこで長期に亘る話し合いを重ねた末、当時復興を果たして間もない難波別院の「支院」という形にして、物的・心的援助を持って堺南御坊の復興をはかるより外はないだろうと結論に達しました。かくして、1973(昭和48)年12月10日、御遷仏法要を執行し、新本堂で初の報恩講を執行後、翌1974(昭和49)年3月28日より30日まで落慶法要が執され、晴れて堺南御坊は難波別院堺支院として新たな歩みを始めました。